2006年01月25日

転落直前の熱狂 ライブドアとエンロン

 温故知新というわけでもないのだが、ライブドア強制捜査をきっかけに、『エンロン 内部告発者』(ミミ・シュワルツ、シェロン・ワトキンス ダイヤモンド社)を読み始めた。その冒頭に、印象的な場面がある。

 ウォールストリート・ジャーナルがエンロンの不正会計疑惑を報じるよりほぼ1年前の200年11月にエンロン本社で行われた経営総会。当時最高執行責任者(COO)だったジェフ・スキリングが壇上に立ち、恒例の年度株価予想をぶつ場面だ。

 これまで、彼の予測はぴたりと的中していた。一九九八年には四〇ドルが六〇ドルに伸び、九九年には八〇ドルになった。(中略)エンロン株は、二〇〇一年には一二六ドルをつけるだろう、と彼は言った。沈黙に続く熱狂的な拍手はエンロンらしかった。(23ページ)

 こんな場面を持ち出したのは、23日に民放各社がニュースやワイドショーで放映した昨年末のライブドア忘年会の光景に、エンロンの経営総会に通ずるものを感じたからだ。

 昼間の株主総会で見せた涙が嘘のように、うたい、踊りまくる堀江氏。「3年以内に世界一の会社にするぞ〜」。堀江氏がこう宣言すると、社員から歓声が上がる。2つの会社は時代も場所も違うけれど、どちらの光景も、株価が急ピッチで上昇する会社に特有の浮ついた熱狂のように見える。

 エンロンが急坂を転がり始めるのはそれからほぼ1年後だったのに対し、ライブドアはわずか3週間後であるのが異なる点だが、ほとんどの参加者がその後の暗転を予想していないことも共通している。

 付け加えると、エンロンの経営総会には、もう一つ、印象的な場面がある。その会の中で『エクセレント・カンパニー』
の著者であるトム・ピーターズだけが、警鐘を鳴らしたのだ。

 ピーターズは、マッキンゼーでのかつての同僚スキリングに向かって、「こんな恐ろしい言葉は聞いたことがありません」「自信過剰は、多くの企業を殺してきました」と言った。ピーターズのスピーチの間、スキリングはこわばった笑い顔で席に凍り付いていたのだという。

 ライブドアの忘年会。はたしてトム・ピーターズのように、警鐘を鳴らす存在はいたのだろうか。



 
タグ:ライブドア
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2006年01月24日

時価総額最大化経営は企業価値を損なう

 23日の夜、ライブドアの堀江貴文社長が逮捕された。大型株式分割や転換社債型新株予約権付社債(MSCB)などを活用した資金調達手法のいかがわしさについては、以前にこの日記でも書いたことがある。

 この時点で僕は大型株式分割やMSCBといったことにしか気づいていなかったが、ライブドアはその時点で、株式分割にM&Aの発表を当てて株価をつりあげる、実質的には傘下に収めてた企業を株式交換で買収、投資事業組合を介した株売却益の環流、そしてライブドア本体の粉飾決算などに手を染めていたことになる。

 大型株式分割や、フジテレビとの攻防で問題になった時間外取引など、個別に取り上げれば違法ではない手法も多い。宮内亮治取締役は一連の株取引には「違法性がない」との認識を示したとされるが、彼らは本当にそう考えていたのかも知れない。だが個々の手法を組み合わせた全体の構図は、明らかに法の裏をかこうとしていたことがうかがえる。

 どこでライブドア、ホリエモンが道を間違えたか。それは今後の捜査で明らかになっていくだろうが、1つ強く思うのは、彼らが掲げた「時価総額最大化経営」は結果として企業価値を損なうということだ。

 本来、長期的な株価上昇=時価総額の極大化とは、長期的な収益の伸びによるもののはずだ。持続的に収益の伸びを実現できる会社は、成長力のある市場で高いシェアを占めたり、強い技術を開発したり、魅力的な商品を持つなど、経営力の高い企業だ。つまり結果的に高い株価、大きな時価総額を実現できる企業も、出発点は経営力を高めることにある。株価は結果でしかない。

 しかし経営トップが高株価経営とか、時価総額最大化経営を掲げ出すと、いつの間にか「結果」であるはずの株価が目的にすり変わってしまう。よい経営→収益向上→高株価というプロセスを経ずに、最も最小限の努力で株価を上げることに奔走するようになる。

 そこに落とし穴がある。大型株式分割による意図的な株価引き上げも、粉飾決算、風説の流布も、株価上昇が唯一の目的になってしまったことに根っこはあるように思える。

 ライブドアは前身のオン・ザ・エッヂ時代の2000年4月に東証マザーズに上場した。「社長が20歳代の若い会社」という意味では話題性はあったが、その後の下げ相場の中で株価も低迷、市場や社会に大きな話題を提供するような会社ではなかった。変わったのは2003年春の上げ相場以降のことだ。2003年8月の株式10分割で株価が急騰、9月に公募増資で51億円を調達したあたりが、ライブドアの“変わり目”だったのかもしれない。

 2000年春にかけてのITバブル時には孫正義氏率いるソフトバンクと重田康光氏の光通信が時価総額の最大化を掲げ、光通信はその後の株価下落で財務内容が悪化し、市場のメーンプレーヤーの座を失った。ソフトバンクはかろうじて生き残りはしたものの、今の孫氏は時価総額最大化を以前のようには掲げなくなった。

 ライブドアの株価は今日も売り気配のまま。株価は短期的には意図的なつり上げが可能に見えるが、長期的に見れば会社や経済の実態に近接する。短期的な株価上昇に暴走する時価総額最大化経営は、長い目で見れば企業価値を損なってしまうのだ。
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2005年10月16日

『世界文学を読みほどく』から『パルムの僧院』へ

 昔から、小説やノンフィクションの作品そのものを読むのと同じくらい、読書本が好きだ。呉智英の『読書家の新技術』(朝日文庫) で、新聞の読書欄から「読むべき面白い本」を見つけ出す技術を身につけ、小林信彦の『小説世界のロビンソン』(新潮文庫)で、「面白い小説とは何か」を学んだ。

 そんな僕にとって、すこぶる魅力的に見えたのが、今年初めに出版された池澤夏樹の『世界文学を読みほどく スタンダールからピンチョンまで』(新潮選書)だ。帯には「世界の10代傑作がこんなにわかる。小説を通してみると、世界のこともこんなにわかる。」とある。

 池澤夏樹は、今の日本の小説家の中でも、最も現実世界の出来事に関心を持ち続け、発言をし続けてきた一人だろう。2001年9月11日の米中枢同時テロの時も、直後からメールマガジンによるコラムを書き続けてきた(その後、『新世紀へようこそ』『世界のために涙せよ−新世紀へようこそ2』となって出版された)。

 この本は単なる世界文学解説本ではない。現代世界に能動的にかかわってきた池澤夏樹が、19世紀からの世界文学の十大傑作を通して世界の姿を読み解いていこうという本だからこそ、惹かれたのだ。

 ところが恥ずかしながら、この本が取り上げた、その十大傑作をほとんど読んでいない。ということで、まず初めに取り上げられているスタンダールの『パルムの僧院』(新潮文庫、上下二巻)を読んでみた。

 正直に言うと、上巻、特に前半は苦労した。この小説はフランス人であるスタンダールが、まだ統一されていない、いくつかの小国の集まりだったイタリアを舞台に書いた小説なのだが、その当時のフランスとイタリアの関係、あるいは政治状況や貴族の生活作法などがわかっていない僕にとっては、素直に世界に入り込むことができなかったからだ。

 しかしその小説世界に慣れ出すと、この小説はとたんに面白くなる。特に文庫本の下巻(新潮文庫のこの前出た、字の大きい改版で、400ページ超)になると、息つく暇なく、最後まで読者は引っ張られる。

 池澤夏樹は『世界文学を』の中で、『パルムの僧院』を、「幸福」という概念で説明しているが、まさにその通りといった感じだ。

 登場人物たちは途中さまざまな不幸に見舞われるけれど、その不幸まで含めて彼らは幸福であるという印象がある。ストーリー全体が祝福されていると言ったらいいか、そこが面白いところです。

 何よりも登場人物が魅力的だ。主人公のファブリス、その叔母で、ファブリスを思い続けるサンセヴェリーナ公爵夫人、そしてファブリスと密かな形で結ばれるクレリア……。

 だけれども、と思う。今の時代にも、こういう小説を書けるのかなあと。世界は、『パルムの僧院』が描くような「幸福感」を、今の時代は許さなくなっているように思う。

 それでも、もう一度読み返したいと思う。次に読む時は、冒頭から小説世界へすんなりと入っていけるはずだ。
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2005年09月25日

村上春樹『東京奇譚集』

 村上春樹の最新短編集『東京奇譚集』(新潮社)を読んだ。「新潮」の2005年3月号から6月号まで連載された「偶然の旅人」「ハナレイ・ベイ」「どこであれそれが見つかりそうな場所で」「日々移動する腎臓の形をした石」の4短編に、書き下ろしの「品川猿」と加えた短編集だ。

 ストレートに良さを感じたのは、最初の「偶然の旅人」と「ハナレイ・ベイ」だ。「偶然の旅人」は作者(村上春樹)の偶然、作者の知人の偶然の後に、知人が長年疎遠になっていた姉との和解が語られる。

 冒頭に作者そのものが登場するのには、彼の小説に慣れた読者から見れば違和感を持つだろうが、そんなことはすぐに忘れて、小説の風景の中にふっと入り込んでしまう。読み終えた時には、長年連絡を取っていなかった誰かに電話しようかと考えてしまうような、ほのかな暖かみを感じる作品だ。

 「ハナレイ・ベイ」は息子を19歳の時に、サーフィン中の事故で亡くした母親の「乾いた悲しみ」が主題だ。能天気な日本人サーファー2人組には見えるのに、自分には見ることのできない「息子の幽霊」を探すくだりが印象的だ。

 後の3編も含め、とにかく「うまいなあ」と思う。僕から見た短編集の評価としては、短編集としては前作に当たる『神の子どもたちはみな踊る』の方が若干、良いのだけれど。ちなみに、「日々移動する腎臓の形をした石」は『紙の子ども』の中にある「蜂蜜パイ」の後日談とも、前日談とも言える作品だ。

 読者に、とりあえず「まあ、読んでみるか」と思わせ、ひととき、比喩に充ちたスマートな会話を楽しませ、終わった時には何かを感じさせている。その芸は見事だと思う。だからといって、作品から明確な意味をつかみとれるわけではない。しばらく経つと、また読みたくなってしまう。その意味で、村上春樹の戦略に、僕らは見事にはまっているのだ。

 「偶然の旅人」を読んでいる間に、チャールズ・ディケンズの『荒涼館』を読みたくなった(他にもそういう人は多いはず)。幸い、僕の家には既に品切れになっているらしい、ちくま文庫判がほこりをかぶっていたので、4冊全部を取り出してきた。作中に出てくる小説を読みたくなってしまうのも、村上春樹の小説の効用の、あるいは困ったことの1つだ。
posted by KH at 23:53| Comment(2) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月19日

半藤一利の『昭和史 1926-1945』で気になる点は

 半藤一利の『昭和史 1926-1945』(平凡社)を大いに誉めたけれども、1つだけ気になる点がある。それは著者の根底にある歴史観だ。

 はじめの章で、著者はこう書いている。

つまり国を開いてからちょうど四十年間かかって、日本は近代国家を完成させたということになるわけです。

 そこから大正、昭和になるのですが、自分たちは世界の堂々たる強国なのだ、強国の仲間に入れるのだ、と日本人は大変いい気になり、自惚れ、のぼせ、世界中を相手にするような戦争をはじめ、明治の父祖が一生懸命つくった国を滅ぼしてしまう結果になる、これが昭和二十年(一九四五)八月十五日の敗戦というわけす。

 一八六五年から国づくりをはじめて一九〇五年に完成した、その国を四十年後の一九四五年にまた滅ぼしてしまう。国をつくるのに四十年、国を滅ぼすのに四十年、語呂合わせのようですが、そういう結果をうんだのです。 

 うーん、そうなのだろうか。

 確かに近代日本を一生懸命つくった「明治の父祖」たちの努力を認めないわけではないが、日露戦争以後の日本が太平洋戦争に向かって滅びの道を歩み出したとすれば、それはそれ以前の「国をつくる四十年」にも、既に滅びにつながる萌芽があったのではないか。

 半藤のこの考え方、歴史観は、おそらく編集者・作家としてつながりが深かった司馬遼太郎の歴史観ともつながるだろう。

 「滅びの四十年間」を、明治や、そして今の日本と区別することは、今の時代がすぐ滅びに結びつくかもしれないという危機意識を麻痺させてしまうものだと思う。
 
posted by KH at 16:55| Comment(1) | TrackBack(1) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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