「ああ、この人は今の世の中をつかみ取る視点を持っているんだなあ」。そんなことを漠然と感じ、当時出たばかりの新潮文庫の『キッドナップツアー』を買った。この文庫は2003年の6月の出版なので、彼女の小説をきちんと読みたいと思ったのは2年近く前ということになる。
結局、気になりつつも忙しさにかまけて読めずにいるうちに、彼女は直木賞を受賞。受賞後にようやく、受賞作の『対岸の彼女』(文藝春秋)を読んでみた。
「女同士の友情」がテーマのこの小説には、2人の主人公がいる。30代、既婚、子持ちだが、娘と共に公園での人間関係をうまく築けないことを日々悩む小夜子と、独身、子なしで小さな旅行会社を経営する葵。
2人は生活環境も性格も異なり、著者がタイトルにつけたように川の「対岸」にいるような関係だ。だが共通するのは彼女たちの周囲に閉塞感が漂うことだ。
2人とも、とりたてて不幸なわけではない。だけれども小説前半で描かれる小夜子の今と、葵の高校時代を取り巻くのは、彼女たち自身の力ではどうしても逃れることのできない閉塞感だ。生活上のトラブル、こころない人々の悪意、家族の無理解――。
こうした小さなことが積み重なり、彼女たちの閉塞感は増していく。その描き方がとてもリアルな故に、この小説は多くの人の共感を得るだろう。2年近く前にエッセイを読んだ時に感じた第一印象は、間違っていなかったと思った。
だが決して「暗い」小説ではない。同年代でしかも同じ大学出身だということがわかった小夜子と葵は急速に仲が良くなるが、あることがきっかけに、お互いの環境の違いを意識して溝をつくってしまう。しかし最後にはその溝は超えられるかもしれないという予兆で、この小説は終わっているからだ。溝ができた後で、小夜子が葵のことを少しずつ理解していく過程は、読み応えがある。
小説中盤(96〜97ページ)で、印象的な場面がある。保育園通いを始めて1カ月がたつ娘のあかりについて、「まだお友達ができない」と愚痴をこぼす小夜子と、それに答える葵の会話だ。
「だけど、友達、たくさんできたほうがやっぱりいいじゃない?」耳に届く自分の声は、みっともないくらい切実だった。けれど小夜子は知りたかった。あかりの未来か、自分の選択の成否か、葵の話の行き着く先か、何を知りたいのかは判然としなかったが、しかし知りたかった。
「私はさ、まわりに子どもがいないから、成長過程に及ぼす影響とかそういうのはわかんない、けどさ、ひとりでいるのがこわくなるようなたくさんの友達よりも、ひとりでいてもこわくないと思わせてくれる何かと出会うことのほうが、うんと大事な気が、今になってするんだよね」
小夜子は正面に座る葵をじっと見詰めた。目の前でぱちんと手をたたかれたみたいに思えた。そうだ、あかりに教えなければならないこと、それは今葵が言ったようなことなんじゃないか、泣きわめくあかりを保育士さんに預け、まだ友達ができないのかとじりじり焦り、迎えにいったあかりから友達の名がひとりも出ないことにまた落胆するのは、何か間違っているのではないか……葵を見つめたまま、小夜子は考えた。
「ひとりでいるのがこわくなるようなたくさんの友達よりも、ひとりでいてもこわくないと思わせてくれる何か」。いい言葉だと思う。そう思わせてくれる何かを持てた時、はじめて性格や境遇や生活環境を超えた友情が成り立つのかもしれない。



「ひとりで立つ」はオトナにとっても
たいへんなことなのかもしれませんね。
返させていただきますね♪
この小説は、考えさせられる小説ですね。
「ひとりでもこわくない」というのは虚勢かもしれないけど、そう思えるような「何か」を見つけることは、大切なのかも、と思います。