2005年10月16日

『世界文学を読みほどく』から『パルムの僧院』へ

 昔から、小説やノンフィクションの作品そのものを読むのと同じくらい、読書本が好きだ。呉智英の『読書家の新技術』(朝日文庫) で、新聞の読書欄から「読むべき面白い本」を見つけ出す技術を身につけ、小林信彦の『小説世界のロビンソン』(新潮文庫)で、「面白い小説とは何か」を学んだ。

 そんな僕にとって、すこぶる魅力的に見えたのが、今年初めに出版された池澤夏樹の『世界文学を読みほどく スタンダールからピンチョンまで』(新潮選書)だ。帯には「世界の10代傑作がこんなにわかる。小説を通してみると、世界のこともこんなにわかる。」とある。

 池澤夏樹は、今の日本の小説家の中でも、最も現実世界の出来事に関心を持ち続け、発言をし続けてきた一人だろう。2001年9月11日の米中枢同時テロの時も、直後からメールマガジンによるコラムを書き続けてきた(その後、『新世紀へようこそ』『世界のために涙せよ−新世紀へようこそ2』となって出版された)。

 この本は単なる世界文学解説本ではない。現代世界に能動的にかかわってきた池澤夏樹が、19世紀からの世界文学の十大傑作を通して世界の姿を読み解いていこうという本だからこそ、惹かれたのだ。

 ところが恥ずかしながら、この本が取り上げた、その十大傑作をほとんど読んでいない。ということで、まず初めに取り上げられているスタンダールの『パルムの僧院』(新潮文庫、上下二巻)を読んでみた。

 正直に言うと、上巻、特に前半は苦労した。この小説はフランス人であるスタンダールが、まだ統一されていない、いくつかの小国の集まりだったイタリアを舞台に書いた小説なのだが、その当時のフランスとイタリアの関係、あるいは政治状況や貴族の生活作法などがわかっていない僕にとっては、素直に世界に入り込むことができなかったからだ。

 しかしその小説世界に慣れ出すと、この小説はとたんに面白くなる。特に文庫本の下巻(新潮文庫のこの前出た、字の大きい改版で、400ページ超)になると、息つく暇なく、最後まで読者は引っ張られる。

 池澤夏樹は『世界文学を』の中で、『パルムの僧院』を、「幸福」という概念で説明しているが、まさにその通りといった感じだ。

 登場人物たちは途中さまざまな不幸に見舞われるけれど、その不幸まで含めて彼らは幸福であるという印象がある。ストーリー全体が祝福されていると言ったらいいか、そこが面白いところです。

 何よりも登場人物が魅力的だ。主人公のファブリス、その叔母で、ファブリスを思い続けるサンセヴェリーナ公爵夫人、そしてファブリスと密かな形で結ばれるクレリア……。

 だけれども、と思う。今の時代にも、こういう小説を書けるのかなあと。世界は、『パルムの僧院』が描くような「幸福感」を、今の時代は許さなくなっているように思う。

 それでも、もう一度読み返したいと思う。次に読む時は、冒頭から小説世界へすんなりと入っていけるはずだ。
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2005年09月25日

村上春樹『東京奇譚集』

 村上春樹の最新短編集『東京奇譚集』(新潮社)を読んだ。「新潮」の2005年3月号から6月号まで連載された「偶然の旅人」「ハナレイ・ベイ」「どこであれそれが見つかりそうな場所で」「日々移動する腎臓の形をした石」の4短編に、書き下ろしの「品川猿」と加えた短編集だ。

 ストレートに良さを感じたのは、最初の「偶然の旅人」と「ハナレイ・ベイ」だ。「偶然の旅人」は作者(村上春樹)の偶然、作者の知人の偶然の後に、知人が長年疎遠になっていた姉との和解が語られる。

 冒頭に作者そのものが登場するのには、彼の小説に慣れた読者から見れば違和感を持つだろうが、そんなことはすぐに忘れて、小説の風景の中にふっと入り込んでしまう。読み終えた時には、長年連絡を取っていなかった誰かに電話しようかと考えてしまうような、ほのかな暖かみを感じる作品だ。

 「ハナレイ・ベイ」は息子を19歳の時に、サーフィン中の事故で亡くした母親の「乾いた悲しみ」が主題だ。能天気な日本人サーファー2人組には見えるのに、自分には見ることのできない「息子の幽霊」を探すくだりが印象的だ。

 後の3編も含め、とにかく「うまいなあ」と思う。僕から見た短編集の評価としては、短編集としては前作に当たる『神の子どもたちはみな踊る』の方が若干、良いのだけれど。ちなみに、「日々移動する腎臓の形をした石」は『紙の子ども』の中にある「蜂蜜パイ」の後日談とも、前日談とも言える作品だ。

 読者に、とりあえず「まあ、読んでみるか」と思わせ、ひととき、比喩に充ちたスマートな会話を楽しませ、終わった時には何かを感じさせている。その芸は見事だと思う。だからといって、作品から明確な意味をつかみとれるわけではない。しばらく経つと、また読みたくなってしまう。その意味で、村上春樹の戦略に、僕らは見事にはまっているのだ。

 「偶然の旅人」を読んでいる間に、チャールズ・ディケンズの『荒涼館』を読みたくなった(他にもそういう人は多いはず)。幸い、僕の家には既に品切れになっているらしい、ちくま文庫判がほこりをかぶっていたので、4冊全部を取り出してきた。作中に出てくる小説を読みたくなってしまうのも、村上春樹の小説の効用の、あるいは困ったことの1つだ。
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2005年09月19日

半藤一利の『昭和史 1926-1945』で気になる点は

 半藤一利の『昭和史 1926-1945』(平凡社)を大いに誉めたけれども、1つだけ気になる点がある。それは著者の根底にある歴史観だ。

 はじめの章で、著者はこう書いている。

つまり国を開いてからちょうど四十年間かかって、日本は近代国家を完成させたということになるわけです。

 そこから大正、昭和になるのですが、自分たちは世界の堂々たる強国なのだ、強国の仲間に入れるのだ、と日本人は大変いい気になり、自惚れ、のぼせ、世界中を相手にするような戦争をはじめ、明治の父祖が一生懸命つくった国を滅ぼしてしまう結果になる、これが昭和二十年(一九四五)八月十五日の敗戦というわけす。

 一八六五年から国づくりをはじめて一九〇五年に完成した、その国を四十年後の一九四五年にまた滅ぼしてしまう。国をつくるのに四十年、国を滅ぼすのに四十年、語呂合わせのようですが、そういう結果をうんだのです。 

 うーん、そうなのだろうか。

 確かに近代日本を一生懸命つくった「明治の父祖」たちの努力を認めないわけではないが、日露戦争以後の日本が太平洋戦争に向かって滅びの道を歩み出したとすれば、それはそれ以前の「国をつくる四十年」にも、既に滅びにつながる萌芽があったのではないか。

 半藤のこの考え方、歴史観は、おそらく編集者・作家としてつながりが深かった司馬遼太郎の歴史観ともつながるだろう。

 「滅びの四十年間」を、明治や、そして今の日本と区別することは、今の時代がすぐ滅びに結びつくかもしれないという危機意識を麻痺させてしまうものだと思う。
 
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ディテイルが素晴らしい半藤一利の『昭和史 1926-1945』。

 保阪正康の『あの戦争は何だったのか』の後に読み始めたのが、昨年に購入して積ん読状態のままだった半藤一利の『昭和史 1926-1945』(平凡社)だ。

 『あの戦争』が新書で250ページなのに対し、『昭和史』はハードカバーで507ページ。そのボリュームの違いが、そのまま読後感の違いにつながる。

 保阪が歴史教科書のような記述でわずか数ページ、数行で通り過ぎてしまうような事件について、膨大な数の知識の引き出しを持つと思われる半藤は、さまざまなファクトを通して歴史、戦争のディテイルを語り続ける。当時の軍幹部や天皇とその側近たちとの言葉もあれば、永井荷風ら文学者の日記の引用もあり、さらに当時小学生だった著者の回想もある。

 結果として、読者は半藤の講談のよう話を聞いている(読んでいる)うちに、いつのまにか無味乾燥ではない、人間的な昭和史を追体験することになるのだ。

 著者はむすびの章で、「昭和史の二十年が私たちに示した教訓」として5つのことを挙げている。

1.国民的熱狂をつくってはいけない。その国民的熱狂に流されてしまってはいけない。
2.最大の危機において日本人は抽象的な観念論を非常に好み、具体的な理性的な方法論をまったく検討しようとしない。
3.日本型のタコツボ社会における小集団主義の弊害。
4.日本人は、国際社会のなかの日本の位置づけを客観的に把握していなかった
5.何かことが起こったときに、対処療法的な、すぐに成果を求める短兵急の発想をとってしまう。

 読めば分かる通り、この教訓そのものは『あの戦争は何だったのか』の導き出す教訓と、そう差があるわけではない。だが500ページ弱を読むことによって昭和史をより身近に感じ始めた読者は、その教訓がより深く理解できるのだ。

 著者は現在75歳。太平洋戦争を自分の記憶として持つ人たちが次々と鬼籍に入ってしまっているだけに、今後、著者のように実体験も込めつつ昭和史を語れる人は出てこないに違いない。著者の他の著書も読みたいと思うと同時に、「昭和史関連の本で一冊だけ勧めるとすれば、この本だな」と考えた。
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保阪正康『あの戦争は何だったのか』

 今年は戦後60年ということで、いつになく昭和史(特に太平洋戦争)に関する本が数多く出版された。このごろ世の中が右傾化していることをひしひしと感じていた僕は、昭和史関連の本をいくつか読んでみようと思い、まず手に取ったのが保阪正康の『あの戦争は何だったのか―大人のための歴史教科書』(新潮新書)だ。

 この本の帯には「太平洋戦争の総括なくして、どうして平和が語れるのだろう? また、日本は何を反省すればいいのか? この本にはその答えがある」とあるのだが、率直な感想は「そこまでの本ではないな」ということ。新書版で250ページというスペースでは、そもそも太平洋戦争についての詳細を語るのに無理があるのだ。

 第1章の「旧日本軍のメカニズム」、開戦の責任は陸軍ではなく海軍にあったことを明らかにする第2章の「開戦に至までのターニングポイント」は面白い。が、戦争の経過を追った第3・4章はおおざっぱすぎる気がする。

 著者は後書きでこう書いている。

あの戦争のなかに、私たちの国に欠けているものの何かがそのまま凝縮されている。そのことを見つめてみたいと私は思っているのだ。その何かは戦争というプロジェクトだけでなく、戦後社会にあっても見られるだけでなく、今なお現実の姿として指摘できるのではないか。

 戦略、つまり思想や理念といった土台はあまり考えずに、戦術のみにひたすら走っていく。対処療法にこだわり、ほころびにつぎをあてるだけの対応策に入り込んでいく。現実を冷静に見ないで、願望や期待をすぐに事実に置きかえてしまう。太平洋戦争は今なお私たちにとって、“良き反面教師”なのである。(240〜250ページ)

 確かにその通りだけれど、これまでの太平洋戦争本にない新しい視点を期待していた僕は、物足りなさも感じてしまった。これが著者の結論であるのなら、これは昔から言われていたではないかと……。
 
 しかし太平洋戦争を全く知らない若い人たちにとっては、コンパクトに「あの戦争」を学べる本書のような本は、大いに意味があるのだろう。
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2005年05月24日

「めざせ100万語!」の途中経過(DickensとFrog and Toad)

 5月9日から始めた英語のペーパーバックの多読。24日までで総語数は67,602語、読んだ冊数はちょうど50冊(2度読んだものもかなりあるので、正確な冊数は31冊)に達した。16日間で約67,000語のペースを維持すれば、約240日で100万語を達成する計算。まあ途中で熱が冷めて、ペースは落ちると思うが、まあまあのペースだろう。

 50冊というすごそうに聞こえるが、最初に読んだPenguin ReaderのEasy Starts(200 headwords)レベルだと、ページ数は16ページで、絵もたくさんあるので、10分やそこらで読めてしまう。

 だが、僕は好きな小説の原作ペーパーバックを買ってきては、何度も挫折している口なので、どんな簡単なものでもペーパーバックを読み終えたということが嬉しい。このスピード感、軽い達成感は、このメソッドの優れている点の1つだろう。

 あまり勉強という感覚がないので、どれだけ上達しているかが正確につかめないが、ちょっと変化を感じてきたのは、「英語を読んでいる」という感覚から「筋を追っている」という感覚に変わってきた点だ。

 今日、読んだのはSSS英語学習法研究会で言うレベル1、読みやすさレベル1.6のCharles DickensのA Tale of Two Cities (Guided Reader S.)(ディケンズの『二都物語』)。翻訳では文庫本2冊にもなる量を語彙数600で、総語数約6000語、ペーパーバックにして64ページにまとめている。

 ペーパーバックの多読を始めたばかりの僕にとっては、これまででは最も高いレベル、かつ長い小説だったが、一気に読み終えてしまった。最後の方は英語を読んでいるという感覚が消えていた(筋を追っていた)のは、嬉しい体験だった。

 まあディケンズの原作の面白さがあってこそ、という面もあるのだろう。ディケンズは今の時代の日本で読むと、面白さの半面、お涙ちょうだい的だったり、説教くさかったりする、粗も気になる作家だ。だが語彙数と長さに制限があるGraded Readersだとそういう末節の部分がカットされて、筋の面白さがより引き立つのかも知れない。

 そのほかでお薦めはFrog and Toadシリーズ 。これはGraded Readersではなく、子ども向けの絵本。全部で10冊のシリーズのうちまだ読んだのは3冊だけだが、どれもくすっと笑って、ほのぼのとした気持ちになる。Arnold Lobel(アーノルド・ローベル)というのは、いい作家だなあ。

 なかでも気に入ったのは、Small Pig (An I Can Read Book)(邦題は『どろんここぶた』)。

 わずか500語という少ない語彙で、こんなに暖かい話が創れるのか……と思う。読み終わると、mud(ぬかるみ)が、心地よさそうなもののように思えてくる。読み聞かせに向いている。子どもがもっと小さな時に、出会いたかった絵本だ。
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2005年05月11日

めざせ100万語!

 先週末に『めざせ100万語!CDパック』(ピアソン・エデュケーション) というのを買って、英語のペーパーバックの多読を始めた。

 これはSSS英語学習法(Start with Simple Stories) といい、中学1年修了程度の基本的な語彙を知っている人が、語彙を限った学習用のペーパーバックや児童書などから多読を行えば、「誰でも半年〜2年の短期間でペーパーバックを辞書無しで楽しめるようになる」というものだ。

 このパックは英語学習用のGraded Readersとして有名なPengin Readersの最低レベル(語彙数は200語で、総語数は1000語程度)の本、5冊と、その朗読を収録したCDをセットにしたものだ。初めて3日目で、5冊を2回ずつ読み終えたので、これまで読んだ総語数は1万語。ちょど目標の100分の1を達成したわけだ。

 3日目だから、まだもちろん「英語が上達した」という感覚はないが、非常に簡単なものでもペーパーバックを読み終えた!という感覚は、なんとなくうきうきするものだ。

 この学習法の原則は(1)辞書は引かない(2)わからないところは飛ばす(3)つまらないと思った本は途中で読むのをやめる――というものなので、「勉強」という感じがしないのもいい。

 これで本当に「100〜300時間という短期間で、シドニー・シェルダン程度のペーパーバックが辞書なしで読めるようになる」のか。結果(あるいは挫折)報告に乞うご期待!

・SSS英語学習法研究会

 
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2005年05月09日

佐藤優の精神的強さの源は何か(とてつもなく面白い『国家の罠』4)

 佐藤優著『国家の罠』を読んでいて、たびたび感じたのは、筆者の精神的な強さである。

 佐藤が鈴木宗男疑惑に絡んで、東京地検特捜部に背任と偽計業務妨害の容疑で逮捕されたのは2002年5月14日。それから2003年10月8日に保釈されるまで、東京拘置所での勾留期間は512日間にも及んだ。

 公務員や大会社の役員など普段犯罪と縁遠い人は、拘置所の独房などに入れられた途端、「なんでこんなことになってしまったんだ」と当惑してしまう。検察側の望むような供述をしてでも、とにかく早くケリをつけ、外に出たいと思うようになるという。事実、この事件で逮捕された佐藤以外の外務省役人や三井物産社員は早々と容疑を認め、第1回公判前や直後に保釈されている。

 一方、佐藤は東京地検の西村尚芳検事と徹底的に議論していく。単に黙秘したり、全面否定するのではなく、自らの仕事の内容については説明しても、供述面では肝心なところで、検察側と折り合おうとはしないのだ。

 国策捜査を巡る西村検事との議論では、むしろそのやりとりを楽しんでいるかのようにも見える。それだけではない。2002年6月4日に背任罪で起訴された時には、自ら望んで勾留延長をも申し出ているのだ。

 こんな佐藤に対して、西村はこうぼやいて見せる。

「あなたは不思議な人だ。罪を他人になすりつけようという姿勢もない。外務省に職場復帰しようとしているわけでもない。僕に対しても好意をもってくれているようだ。しかし、供述については歩み寄ろうとしない。何でなんだ。前島は佐藤に言われていやいやいやったとあんたに全部押しつけているよ。あなたも席取りで少しいい場所を取るように考えた方がいい」

 私は感情を表に出さずに答える。

「いい席は前島にあげてくれ」(234〜235ページ)

 この強さは、どこから来るのだろう。強さの源は何なのだろう。1つには、佐藤が「歴史に対する責任」を感じているからだろう。彼はこう書いている。

 しかし、私は別の選択をした。歴史に正確な記録を残しておきたい。そうすれば、二〇三〇年には、私たちとゴロデツキー教授の関係、テレアビブ国際学会にカンする外交文書も、北方四島へのディーゼル発電機供与事業に関する外交文書も原則的に公開される。そのとき検察のストーリーと私の供述のどちらかが正しいかが明らかになる。諦めてはならない。歴史に対する責任を果たすんだ、と意気込んでいた。(358〜359ページ)

 しかし、「歴史に対する責任」感だけで、人はこれだけの強さを持ちうるだろうか。そこで思い当たるのは、佐藤がクリスチャンであるという点だ。

 佐藤は逮捕されるとすぐに弁護士に対して、「日本聖書協会が発行している共同訳聖書の旧約続編・引照付き聖書」を差し入れるよう、頼んでいる。拘置所の中ではその聖書をいつも手許に置き、毎日、預言書に目を通したのだという。

 ヨブ、エゼキエルなどイスラエルの預言者が時空を超え、独房に現れ、私の目の前で話しているような印象を持った。(394ページ)

 本書の中には明示的には書かれていないが、佐藤はどこかで「神の目」を感じていたのではないか。検察から課せられた容疑があろうと、外務省幹部が佐藤らの仕事を否定しようと、すべてを見続ける神。その存在を彼が感じていたからこそ、彼の強さはあるのではないか。そんな印象を受けるのだ。
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2005年05月03日

突然の国策捜査の終了(とてつもなく面白い『国家の罠』3)

 佐藤優著『国家の罠』の後半部分に、気になる部分がある。

 2002年5月14日に東京地検に逮捕された佐藤は、東京地検の西村尚芳検事による取り調べがかなり進んだある日、こんなことを言われたという。

「この話を事件化すると相当上まで触らなくてはならなくなるので、うち(検察)の上が躊躇しはじめた。昨日、上の人間に呼ばれ、『西村、この話はどこかで森喜朗(前総理)に触らなくてはならないな』と言われた」

「西村さん、それは当然だよ、鈴木さんにしたって僕だって、森総理に言われてセルゲイ・イワノフとの会談を準備したんだから」(344P)

 そして逮捕から3カ月後の8月26日、捜査は突然終幕を迎える。佐藤は西村とこんなやりとりをする。

「唐突な終わりだね。いったい何があったの」

 西村氏は、捜査が終了した経緯について率直に説明した。この内容について、私は読者に説明することはまだ差し控えなくてはならない。しかし、ひとことだけ言っておきたいのは、西村氏の説明が踏み込んだ内容で説得力に富むことだった。私は西村氏に答えて言った。

「そうすると今回の国策捜査をヤレと指令したところと撃ち方ヤメを指令したところは一緒なのだろうか」

「わからない。ただし、アクセルとブレーキは案外近くにあるような感じがする。今回の国策捜査は異常な熱気で始まったが、その終わり方も尋常じゃなかった。ものすごい力が働いた。初めの力と終わりの力は君が言うように一緒のところにあるかもしれない」

「西村さん、僕にもそんな感じがする。体制内の政治事件だからね。徹底的に追求すると日本の国家システム自体が壊れてしまう」(345〜346P)

 普通に推理すれば、これは小泉純一郎首相本人かその周辺がアクセルを踏み、森喜朗前首相に累が及ぶのを恐れ、小泉本人かその周辺がブレーキも踏んだということなのだろう。

 検察に対して「正義の味方」といった幻想は抱いていなかったつもりだが、こういうやりとりから垣間見える検察=国家権力のあり方に、僕はやはり恐ろしさをおぼえる。
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2005年05月02日

どうして国策捜査は行われたか(とてつもなく面白い『国家の罠』2)

 佐藤優の『国家の罠』についてはいくつもの論点で語ることができると思うが、最も重要なのは、鈴木宗男事件は「国策捜査」だったという点だ。東京地検の西村尚芳検事は逮捕から3日後の2002年5月16日に、佐藤に対して

「そこまでわかっているんじゃないか。君は。だってこれは『国策捜査』なんだから」

 と、初めて「国策捜査」という言葉を使っている(218P)。また西村は佐藤に対して、こうも言っている。

「これは国策捜査なんだから。あなたが捕まった理由は簡単。あなたと鈴木宗男をつなげる事件を作るため。国策捜査は『時代のけじめ』をつけるために必要なんです。時代を転換するために、何か象徴的な事件を作りだして、それを断罪するのです」。(287P)

 それではどんな「時代のけじめ」、どんな「時代の転換」が必要だったのだろうか。佐藤は西村との取り調べを通して自分の考えをぶつけ、以下のような考えを持つようになる。

 問題はその先だ。なぜ、他の政治家ではなく鈴木宗男氏がターゲットにされたかだ。それがわかれば時代がどのように転換しつつあるかもわかる。(中略)

 その結果、現在の日本では、内政におけるケインズ型公平分配路線からハイエク型傾斜配分路線への転換、外交における地政学的国際協調主義から拝外主義的ナショナリズムへの転換という二つの線で「時代のけじめ」をつける必要があり、その線が交錯するところに鈴木宗男氏がいるので、どうも国策捜査の対象になったのではないかという構図が見えてきた。

 小泉政権の成立後、日本の国家政策は内政、外交の両面で大きく変化した。森政権と小泉政権は、人脈的には清和会(旧福田派)という共通の母胎から生まれてはいるが、基本政策には大きな断絶がある。内政上の変化は、競争原理を強化し、日本経済を活性化し、国力を強化することである。外交上の変化は、日本人の国家意識、民族意識の強化である。

 この二つの変化は、小手先の手直しにとどまらず、日本国家体制の根幹に影響を与えるまさに構造的変革という性格を帯びている。(中略)

 鈴木宗男氏は、ひとことで言えば、「政治権力をカネに替える腐敗政治家」として断罪された。

 これは、ケインズ型の公平配分の論理からハイエク型の傾斜配分の論理への転換を実現する上で極めて好都合な「物語」なのである。鈴木氏の機能は、構造的に経済的に弱い地域の声を汲み上げ、それを政治に反映させ、公平配分を担保することだった。

 ポピュリズムを権力基盤とする小泉政権としても、「地方を大切にすると経済が弱体化する」とか「公平配分をやめて金持ちを優遇する傾斜配分に転換するのが国益だ」とは公言できない。しかし、鈴木宗男型の「腐敗・汚職政治と断絶する」というスローガンならば国民全体の拍手喝采を受け、腐敗・汚職を根絶した結果として、ハイエク型新自由主義、露骨な形での傾斜配分への路線転換ができる。結果からみると鈴木疑惑はそのような機能を果たしたといえよう。(292〜294P)
 小泉首相や官邸の人間が、佐藤優や鈴木宗男の逮捕時に、以下のような明確な「時代のけじめ」を意識していたかは、僕にはわからない。おそらく佐藤がここで解説したほどには、明確な意識はなかったに違いない。

 だが結果として、鈴木宗男事件の前後から、というより小泉政権の誕生後、日本が「内政におけるケインズ型公平分配路線からハイエク型傾斜配分路線への転換、外交における地政学的国際協調主義から拝外主義的ナショナリズムへの転換」の舵を切ったことは確かだ。

 その後の小泉政権の三位一体改革による地方の切り捨て、イラクへの自衛隊派兵、最近のロシア、中国、韓国、北朝鮮との関係悪化などを考えると、佐藤の分析は的を射ていると思う。また、彼の分析は僕自身の実感とも重なっている。

 その当時はわからなくても、しばらくたって時代を振り返った時に、「あの時がターニングポイントだったのかもしれない」と思う瞬間がある。2001年4月の小泉政権誕生、そして2001〜2002年のムネオバッシング、鈴木宗男事件はそのターニングポイントを象徴する事件だったのかも知れない。
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2005年05月01日

とてつもなく面白い『国家の罠』(佐藤優著、新潮社)

 梅田望夫氏のブログでの書評に触発されて、佐藤優の『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社)を、しばらく前に読み終えた。

 佐藤優は外務省の元主任分析官。1991年のソ連消滅、エリツィン大統領の台頭から、その後の混乱の時代を経て、プーチン氏への政権委譲へと続く90年代激動のロシアを縦横無尽に駆け回り、類いまれな専門知識と豊富な人脈形成力を駆使して、膨大な情報を日本政府にもたらした外交官だ。だが鈴木宗男疑惑に絡んで2002年、東京地検特捜部に背任と偽計業務妨害の容疑で逮捕された。

 その佐藤が「鈴木宗男事件」と、東京地検によるその捜査の実態を明らかにしたのが本書だ。感想を一言で言えば「とてつもなく面白い」。これから何回かに分けて、この本について書いてみたい。

 その前に『国家の罠』について触れた書評などをいくつか。

・ムネオ日記(鈴木宗男、2005年3月29日)
(前略)
 佐藤優さんの「国家の罠」(新潮社)が大きな反響を呼んでいる。先週の週刊新潮の「真紀子ヒトラーと宗男スターリンの死闘」は本の一部を紹介しているもので興味をそそる。今週の週刊現代では「私と鈴木宗男を陷れた面々」と佐藤さんの告白インタビューは魚住昭先生とのやりとりだけにとっても迫力がある。今日発売の週刊朝日、「私が国家の罠に落ちた理由の中で事件は時代のけじめをつけるための国策捜査だったと主張する」佐藤さんの明確な信念や想いが伝わってくる。

 多くの人が「国家の罠」週刊誌での佐藤さんの発言を読んで何が真実かそれなりに答えが出ることだろう。私も検察官から「権力を背景にやっていますので国策捜査と言われればその通りです」と言われたことを思い出しながら意図的に恣意的に事件は作られ狙われたらどうしようもない現実を経験したものとして佐藤さんの気持ちが痛いほど判る。私も佐藤さんも一に国益、二に国益、三、四無くて五に国益をふまえ、日露関係の発展、領土問題の解決に努力したことを誇りに思いながら過ぎし日々を振り返るものである。

・外交大転換の裏面描く(2005年4月17日 読売新聞書評 米原万里)

・国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて [著]佐藤優(2005年4月17日 朝日新聞書評 青木昌彦)

・「異能の外交官」の内幕手記(2005年4月10日 産経新聞書評)


追記(5/15)

 続編があるので、こちらも読んでくださいね。

どうして国策捜査は行われたか(とてつもなく面白い『国家の罠』2)

突然の国策捜査の終了(とてつもなく面白い『国家の罠』3)

佐藤優の精神的強さの源は何か(とてつもなく面白い『国家の罠』4)


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2005年04月08日

贅沢な『日本縦断 徒歩の旅』

 四国へ来てからというもの「歩いて旅をしてみたい」という思いを強くしている。

 子どもの頃から旅が好きだった。ただ就職してからは時間が限られ、旅らしい旅をしていない。それがこちらへ来てから多少の自由が効くようになり、旅への欲求が再び出てきたからかもしれない。あるいは「お遍路=四国八十八カ所巡礼」という、徒歩の旅に適した「超ロングトレイル」が自分の住む場所のすぐ近くにあることも、影響しているのかもしれない。

 そんな思いを持ちつつ昨年買ったままになっていた石川文洋『日本縦断 徒歩の旅 ―65歳の挑戦―』(岩波新書)をようやく読んだ。報道カメラマンの石川が、北海道・宗谷岬から沖縄・那覇までを、日本海側経由で約5カ月で歩き通した記録だ。

 感想は一言、「羨ましいなあ」。

 同じ旅行記でも、例えば司馬遼太郎の『街道を歩く』シリーズは、その土地で見たモノ、会った人を描くというより、それをきっかけに歴史や故事にさかのぼることを主眼としている。

 それに対して石川文洋の『日本縦断』は、帯にあるように「ひたすら歩いた日本再発見の記録」だ。元々がカメラマンだから、文章がものすごく巧いわけではない。けれどもその淡々とした、飾らない文章に、かえって好感をもてる。何より通り過ぎていく土地で、おびただしい数の人たちとふれ合っている点が素晴らしい。

 石川は終章、「3300キロを歩き終えて」で、こう書いている。
 
先日、友人から「君すごいことをしたなあ」と言われた。でも、私自身すごいこととはまったく思っていない。なぜなら、のんびりと風景を見ながら楽しい旅をしていたからだ。つらいけど歩き通そうなどの悲壮感は少しもなく、旅館で毎晩旨い料理を食べて酒を飲み、自分だけこんな贅沢な旅をしていて良いのかなあ、と妻に申し訳ないと思っていたぐらいだ。

 この文章を読んで、「そうだろうなあ」と思える人は、間違いなくこの本を楽しめる。けれども逆に「3300キロを歩くなんて、楽しいわけないじゃない」と思ってしまう人は、最初からこの本を手に取らない方がいい。

 出発した7月には73キロだった体重は旅終了後の12月には62.2キロに。血液検査の結果は医師が「完璧です。非の打ちどころがありません。この年齢でこの数字は珍しい」と言うほどだったという。素晴らしい。

 ちなみに、このエントリーを書くためにウェブを調べていて、岩波書店のページの中に、石川がこの旅の中で撮った写真が掲載されているライブラリーがあるのを見つけた。

 石川文洋「日本縦断 徒歩の旅」フォト・ライブラリー

 このライブラリーを見ながら本書を読み進めると、楽しさが増す。
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2005年03月20日

ひとりでいてもこわくないと思わせてくれる何か

 直木賞を受賞したから書いていると思われるかもしれないが、しばらく前から角田光代をきちっと読みたいなと思っていた。雑誌に載っていた彼女のエッセイが、とても印象的だったからだ(印象だけはあって、その割には掲載誌も内容も覚えていないので、自分でもあきれてしまうが)。

「ああ、この人は今の世の中をつかみ取る視点を持っているんだなあ」。そんなことを漠然と感じ、当時出たばかりの新潮文庫の『キッドナップツアー』を買った。この文庫は2003年の6月の出版なので、彼女の小説をきちんと読みたいと思ったのは2年近く前ということになる。

 結局、気になりつつも忙しさにかまけて読めずにいるうちに、彼女は直木賞を受賞。受賞後にようやく、受賞作の『対岸の彼女』(文藝春秋)を読んでみた。
 
 「女同士の友情」がテーマのこの小説には、2人の主人公がいる。30代、既婚、子持ちだが、娘と共に公園での人間関係をうまく築けないことを日々悩む小夜子と、独身、子なしで小さな旅行会社を経営する葵。

 2人は生活環境も性格も異なり、著者がタイトルにつけたように川の「対岸」にいるような関係だ。だが共通するのは彼女たちの周囲に閉塞感が漂うことだ。

 2人とも、とりたてて不幸なわけではない。だけれども小説前半で描かれる小夜子の今と、葵の高校時代を取り巻くのは、彼女たち自身の力ではどうしても逃れることのできない閉塞感だ。生活上のトラブル、こころない人々の悪意、家族の無理解――。

 こうした小さなことが積み重なり、彼女たちの閉塞感は増していく。その描き方がとてもリアルな故に、この小説は多くの人の共感を得るだろう。2年近く前にエッセイを読んだ時に感じた第一印象は、間違っていなかったと思った。

 だが決して「暗い」小説ではない。同年代でしかも同じ大学出身だということがわかった小夜子と葵は急速に仲が良くなるが、あることがきっかけに、お互いの環境の違いを意識して溝をつくってしまう。しかし最後にはその溝は超えられるかもしれないという予兆で、この小説は終わっているからだ。溝ができた後で、小夜子が葵のことを少しずつ理解していく過程は、読み応えがある。

 小説中盤(96〜97ページ)で、印象的な場面がある。保育園通いを始めて1カ月がたつ娘のあかりについて、「まだお友達ができない」と愚痴をこぼす小夜子と、それに答える葵の会話だ。

 
「だけど、友達、たくさんできたほうがやっぱりいいじゃない?」耳に届く自分の声は、みっともないくらい切実だった。けれど小夜子は知りたかった。あかりの未来か、自分の選択の成否か、葵の話の行き着く先か、何を知りたいのかは判然としなかったが、しかし知りたかった。

「私はさ、まわりに子どもがいないから、成長過程に及ぼす影響とかそういうのはわかんない、けどさ、ひとりでいるのがこわくなるようなたくさんの友達よりも、ひとりでいてもこわくないと思わせてくれる何かと出会うことのほうが、うんと大事な気が、今になってするんだよね」

 小夜子は正面に座る葵をじっと見詰めた。目の前でぱちんと手をたたかれたみたいに思えた。そうだ、あかりに教えなければならないこと、それは今葵が言ったようなことなんじゃないか、泣きわめくあかりを保育士さんに預け、まだ友達ができないのかとじりじり焦り、迎えにいったあかりから友達の名がひとりも出ないことにまた落胆するのは、何か間違っているのではないか……葵を見つめたまま、小夜子は考えた。

 「ひとりでいるのがこわくなるようなたくさんの友達よりも、ひとりでいてもこわくないと思わせてくれる何か」。いい言葉だと思う。そう思わせてくれる何かを持てた時、はじめて性格や境遇や生活環境を超えた友情が成り立つのかもしれない。
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2005年03月06日

やさしい言葉だけを使い、紋切り型にはならない文章

 やさしい言葉、誰もが普段から口にしているような言葉だけを使い、だけれども紋切り型では決してない、生きた文章を書く。言うのはやさしいけれども、それはとても難しいことだ。そのことを、見事なまでにできている小説が、レベッカ・ブラウンの『体の贈り物』(柴田元幸訳、新潮文庫)だ。

 主人公はエイズ患者を世話するホームケア・ワーカーの女性。この短編集には、彼女と患者たち、あるいは患者の家族や友人、そしてホームケアワーカーを主催するグループのメンバーとの交流を巡る11の物語が収められている。

 エイズ患者がアメリカにおいて最初に報告されたのが1981年だというから、エイズにも既に四半世紀近い歴史があるわけだ。その中で、小説や映画、ドラマでエイズやエイズ患者がテーマになったことはあまたあるだろう。

 それだけに、この手の話を「書く」ことはとても難しい。エイズ患者やエイズについての固定観念があるから、物語はとても陳腐になりやすい。それなのに、この短編集は少しも陳腐でない。

 筆者、レベッカ・ブラウンは実際ホームケアワーカーの経験があるそうだが、だからといって、このような陳腐でなく、患者の息づかいや肌触り、患者と接した時のとまどいや恐怖、そしてふれ合いの中で感じる暖かさまで感じられる文章を書けるものではない。筆者にはきっと、流布している物語に流されずに現実を見る目と、それを言葉に移し替える力があるのだろう。付け加えれば、柴田元幸の訳も、彼女の文章に合っているのだと思う。

 もう一つ強調すべきは、「汗の贈り物」「死の贈り物」「希望の贈り物」といった11の短編がすべて「○○の贈り物」といったタイトルになっている点だ。エイズ患者を世話するとは、遅かれ早かれ患者の死を迎えることにつながるにもかかわらず、筆者は患者との交流の中から「贈り物」という肯定的な何かを見いだしている。

 正直、こうした状況にたったことのない僕には、わからない感情や状況もある。だが家族や大切な人の死を看取ったことのある人、死が避けられない家族や友人を今持っている人、そういう人を勇気づける、支える力のある本だ。読み終わった後、大切な人を亡くしたばかりの友人に薦めたいと思った。
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2005年02月09日

希望格差社会と泥棒カンパニー

 山田昌弘著の『希望格差社会』(筑摩書房)を読んだ。論理展開が一部、我田引水に過ぎるし、データの扱いがいい加減だなと思うところもあった。が、それでもこの本は、今の日本社会の鋭い分析になり得ていると思う。

 これまでにも、日本社会の総中流意識が薄れ、経済格差や所得格差が広がっているという指摘は数多くあった。さまざまな局面で「勝ち組」と「負け組」という言葉が聞かれるようにもなった。ただ人々の持つ「希望」の「格差」が広がっていることを、これほど明確に指摘した本は、これまでになかったのではあるまいか。

 日本社会は、将来に希望がもてる人と絶望している人に分裂していくプロセスに入っているのではないか。これを私は、「希望格差社会」と名付けたい。一見、日本社会は、今でも経済的に豊かで平等な社会に見える。フリーターでさえ、車やブランド・バッグをもっている。しかし、豊かな生活の裏側で進行しているのが、希望格差の拡大なのである。
(はしがき――先が見えない時代に)


 実に暗い見通しだが、次のようなニュースを読むと、著者が言うような「希望」を持てなくなった若者が多数存在することを納得せざるを得ない。

 
自称「泥棒カンパニー」 窃盗容疑の少年ら3人逮捕
 東京都内や埼玉県で空き巣を繰り返したとして、警視庁は、東京都板橋区の無職少年(17)ら3人を窃盗の疑いで逮捕した、と7日発表した。遊び仲間の少年ら7人でグループを構成。自分たちで「泥棒カンパニー」と名付け、リーダー格の少年は「社長」と名乗り、残りの少年らを「社員」と呼んで統率。盗んだ金は風俗店などで使っていたという。同庁は、グループによる被害は都内と埼玉県内で計15件、総額3700万円にのぼるとみて調べている。

 「社長」の少年は、調べに対し「人に頭を下げて稼いでも、たかが知れている。働くことなんてバカバカしい。泥棒でこれだけ稼げるので、金を金と思わなくなった」などと話しているという。(後略)
朝日新聞 2005/02/07
http://www.asahi.com/national/update/0207/032.html


 こうした人たち=将来に絶望している人たちが増えていることを考えると、寒々しい気持ちになる。

 問題は、このような「希望格差社会」に対して我々は何ができるか、ということだろう。著者は第1章で、全9章のうち最終章で「私なりの対応策を示す」としている。

 だが9章でも多くのページを割いているのは、「リスク化し二極化する社会に対するには、ネオ・リベラリズム的な自由化論にも、ロバート・ライシュによってネオ・ラダイット(機械打ち壊し)運動と名付けられた統制経済への回帰にも問題がある。かといって個人で対処するには問題が大きすぎる」という主張である。

 著者の言う「私なりの対応策」はわずか最後の6ページに書かれているに過ぎない。そこで著者は「個人的対応への公共的支援」の必要性を強調するほか、それぞれの個人がコミュニケーション能力をつけることの重要性を説いている。

 確かにそれは重要だろうが、250ページあまりの中で対応策がわずか6ページ、しかも内容的にこれだけというのは、正直言って拍子抜けしてしまった。

 しかし簡単に対応策が描けない点に、この問題の深さが現れているとも言える。

 
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2005年01月22日

小説の可能性を見せられた『夜のピクニック』(恩田陸)

 ある程度本を読む人なら「この人が誉めている本なら大丈夫だろう」という書評家が何人かいるだろう。僕にとって小説分野で最良の道先案内人は小林信彦や村上春樹。さらに池上冬樹も信用している評論家の1人だ。

 その池上冬樹が朝日新聞の読書欄で昨夏に「新作にして名作。必読!」と評価していたのが、恩田陸の『夜のピクニック』だ。当然、すぐに買ったのはいいが、ぐずぐずしているうちに「本の雑誌」の2004年度ベスト1に選ばれ、世間で評価が高まる前に読んで他人に教えるという楽しみを失い、年が明けてしまった。

 昨晩読み始めて、仕事があるにもかかわらずほぼ1日で読み終えた。「夜を徹して80キロを歩き通すという、高校生活最後の一大イベント『歩行祭』」を舞台とした小説だ。作品中で流れる時間も1日なので、それとほぼ同じ時間で読み終えたことになる。

 第1に思うのは、読み続けている時間が幸せだったということ。事件らしい事件は起こらない。血は流れない、暴力はない、セックスもない。恋愛の予感はあっても、恋愛そのものが描かれているわけでもない。あえて言えばテーマは友情や家族だろう。だけれども、読む者の心を揺り動かし、「この先はどうなるのだろう?」と思わせて、最後には登場人物を祝福できる。そんな小説だ。

 人を殺すこと、人が死ぬことや、激しい性や暴力がストーリーテリングの重要な原動力になるのを認めないわけではない。ただそのような激しさがなくても、こんなにも先を読みたくなる小説が成立するのだ。そういう意味で、小説の持つ可能性の大きさを見せられた気がする。

 ただ細かい点で不満もないわけではない。登場人物たちは主役だけでなく脇役もみな、自分という人間を把握し、周囲の友達までよく見えている。自分が高校生だった頃を振り返ってみても、ここまで周りが見えていた、物がわかっていたとは到底思えない。もっと誤解と焦りとうぬぼれに満ちているのが、本物の高校生活ではないか。

 そういう意味では、この本に出てくる登場人物たちの心情は、大人(作者)が自分の高校生の頃を振り返り、一つ一つの行動の裏にあった性格なり意味なりを深く掘り下げた上で描き出した「心情」のような気がする。
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2005年01月21日

増田真樹著『超簡単!ブログ入門』を読んで、ブログを立ち上げた

 近所の本屋の平積みで見つけたのがこの本(増田真樹著『超簡単!ブログ入門』)。アマゾンで検索すると、ブログ関係の入門書はたくさん出ているし、実は僕も1冊買って、部屋に積んだままになっている本もある。

 副題は「たった2時間で自分のホームページが持てる」。僕はこの本を読んでいる途中でブログを立ち上げたのだから、まさしくこの副題通り。

 でもそれよりも重要なのは、ブログをこれまで知らなかった人にも、その意義や効能、楽しさなどをわかりやすく、かみくだいて伝えられる本だということ。それがこれまでのブログ入門書との差だと思う。

 中に検索エンジンの米グーグルがブログを使って車内を活性化させた事例があるが、こうした事例を通してブログの意味を語ろうとしている点が、他の本とは一線を画すところだろう。

 著者のサイトによると、10歳の頃からソフト会社を立ち上げアーケードゲームやアドベンチャーゲームを何十本もつくり、巨額のお小遣いを得てきた人だという。そういうばりばりコンピューター系のところから出発した人なのに、これだけIT音痴にもわかりやすい入門書を書けることは、大した才能だと思う。

 いろいろな意味で、良書です。
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2005年01月18日

裏切られる快感、サラ・ウォーターズの『荊の城』

 正月休みから読んでいたサラ・ウォーターズの『荊の城』(創元推理文庫、上下2巻)を読み終わった。『このミス2005』海外編の第1位に輝いた作品だから、読んだ人も多いと思う。

 この作品の魅力の第一は「裏切られる快感」だろうか。「面白い!」と言われている割には先が読めるぞと思い出した矢先(上巻の五分の三くらいのところ)に、僕はまず「やられた!」と膝を打ってしまった。そしてこの「やられた!」感が続くのだ。特に下巻になってからは、「またやられた!」と幾度もうなってしまう。

 筋の面白い小説は古今東西いろいろあるが、『荊の城』は他人を信用して、詐欺に引っかかり「裏切られた!」と思う瞬間と同じ類の感情を、プロットの原動力にしている。本物の詐欺に引っかかった時は悔しさや後悔が先にくるだろうが、小説の場合は裏切られることは「快感」である。

 それと下巻後半のラント街の錠前屋のシーンも、ひどくドキドキさせられる。集団シーンにおいて、それぞれの登場人物が知っていることが異なり、それを特定の誰かにわからせようとしたり、わからせまいとしたり、あるいはその場の雰囲気から何が起こったかを知ろうとしたりすることは、こんなにもスリリングなのか。読んでない人には「なんのこっちゃ?」だろうけれど、それを書くと、筋に触れてしまうので。

 ただ、ちょっと長いかなとも思った。まあ最近のミステリーを読むと、たいていそう思ってしまうので、長さに関しては採点がからいかもしれないが。前半の描写(最初の「やられた!」が来るまで)がもうちょっと圧縮されていると、もっとスピード感が出てくるのでは。

 主人公スウ・トリンダーが、仕えることになったモード・リリーにだんだんに思いを寄せていく(これがこの小説の重要な要素でもある)ことを物語るには、このくらいの長さが必要なのかも知れないが。

 彼女の前作『半身』と、『荊の城』の下敷きになっているディケンズの作品もぜひ読みたい。

 彼女のインタビューによると、やはり「ディケンズがおそらく一番のお気に入りの作家」なのだそうだ。やはり、そうなのか。
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